Montag, 5. Dezember 2011

シュミトケ『15世紀の12イマーム派イスラムにおける神学・哲学・神秘主義』第1-2章


Schmidtke, S., Theologie, Philosophie und Mystik im zwölferschiitischen Islam des 9./15. Jahrhunderts: Die Gedankenwelten des Ibn Abī Ğumhūr al-Ahsāʾī (um 838/1434-35-nach 906/1501), Leiden: Brill, 2000, 1-36.

シーア派研究・ムウタズィラ派研究で有名なSabine Schmidtke によるイブン=アビー=ジュムフール(以下ジュムフール)に関するモノグラフ。今回はその序論部(第1-2章)のみ拾い読みしました。ジュムフール(1501年以降没)はアラビア半島東岸に位置するオアシス地区ハサーで学問的中心地だったタイミーヤ村の出身で、後のシーア派の学者に大きな影響を与えた人物とされています。Corbin によれば、彼はハイダル・アームリー(1385年頃没)やイブン=トゥルカ(1431/2年没)と並んで後のサファヴィー朝ルネサンス(16-17世紀)を準備したシーア派神秘哲学の代表者の1人で、イブン=アラビーの存在一性論とスフラワルディーの照明哲学をシーア派的背景の下に融合させたと評されています。

Schmidtke によると、13-16世紀という時代には、4つの大きな思想潮流が併存していたのだそうです。ムウタズィラ派思弁神学、イブン=スィーナーの影響を受けたアリストテレス=新プラトン主義的な哲学、スフラワルディーによって基礎づけられた照明哲学、そしてイブン=アラビーに端を発する存在一性論の4つです。Schmidtke の見立てでは、これら4つの潮流全てをはじめて統合しようとした人物がジュムフールなのだとか。いずれにしても、このような観点から、序論はまずこれら4つの思想潮流それぞれに関する比較的詳しめの解説からはじまり、次いでジュムフールの生涯と著作という順で論述が進んでいきます。ここではジュムフールの主要著作のメモだけ。

ジュムフールは法学・ハディース学・神学・神秘哲学などの諸分野で多くの著作をものしたそうですが、残念ながらその大部分は散逸してしまったようです。現存するものの中で最も重要なのは、次のもの。

1) Ghawali al-La'ali: ハディース学の著作。
2) Ma'in al-Ma'in fi usul al-din: 神学著作。アッラーマ・ヒッリー(1325年没)のal-Bab al-hadi 'ashar に対する自身の注釈Ma'in al-fikar fi sharh al-Bab al-hadi 'ashar に対してさらに注釈を付したもの。当時神学において論じられていたあらゆる問題に関する諸派の見解を包括的に収録している。ジュムフール自身がそのうちどの立場をとるかに関しては明らかでないが、後の著作(例えば[3])でしばしば言及されていることからも、彼自身この書を重要視していたということがわかる。写本はあまり現存しない。
3) Kashf al-barahin sharh Zad al-musafirin: 神学著作。自身のZad al-musafirin に対して注釈を付したもの。ジュムフール自身の見解が(2)よりも明確に語られている。アシュアリー派神学とムウタズィラ派神学の総合が試みられており、ファフルッディーン・ラーズィー(1209年没)やナスィールッディーン・トゥースィー(1274年没)、ヒッリー、ならびに他のイマーム派・スンナ派の学者がしばしば引かれる。写本は少数しか現存しない。
4) Kitab al-mujli: 神秘哲学の著作。神学・逍遥学派哲学・照明哲学・スーフィズムの思想的遺産を総合することが試みられている。神学書への言及は少なく、神秘主義の著作や哲学著作への言及が多数を占める。(2)(3)に比して写本の残存数も多い。

注は豊富で読書量の多さに圧倒されますし、写本をバリバリ読んでいるところからも、自分との差を痛感します。ただ、いかんせん全体を通して論述が非常に徒然で、情報の羅列という印象はぬぐえません。その意味で博論の序論書きの手本にはあまりならなそうな気がしました。とはいえ、シーア派的な要素を度外視すれば、ジュムフールの思想はファナーリーのそれと共通するところが多いはずなので、つづく本文の部分もある程度目を通してみようと思います。

ちなみに13世紀頃のバーレーン(この場合はおそらくアラビア半島東岸のこと)で活躍していたシーア派の神秘哲学者たちを取りあげた研究に、A. Oraibi, ''Shi'i Renaissance: A Case Study of the Theosophical School of Bahrain in the 7th/13th Century'', PhD diss., McGill Univ., 1992 という博論があります。あわせて読むとよいのかもしれません。

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[更新後付記]

なお上記の4つの思想潮流の歴史的沿革については、それぞれ次のようにまとめられています。

1) ムウタズィラ派
同派の思想的遺産は9世紀後半にナウバフト一族がこれを受容したことによって、イマーム派内に受け継がれた。代表的な人物はアブー=サフル・イブン=ナウバフト(924年没)とハサン・イブン=ムーサー・ナウバフト(912-922のあいだに没)だが、彼らの著作は散逸してしまっており、その思想は後代のイマーム派内での言及から再構成するほかない。同派の影響を受けた最初のイマーム派の学者は、シャイフ・ムフィード(1022年没)。彼の著作は部分的に残っている。ムフィードはイマーム派の先達であり自身の師でもあるイブン=バーバワイヒ(991-92年のあいだに没)の伝承主義的な学説から離れ、バグダード学派(バグダードのムウタズィラ派?)の創始者であるアブルカースィム・バルヒー・カアビー(931年没)の学説に従っている。他方で彼の弟子シャリーフ・ムルタダーはバスラ学派(バスラのムウタウズィラ派)の学説を公言している。また彼は当時のバスラ派の指導者アブドゥルジャッバール・ハマザーニー(1025年没)の弟子でもあった。ムルタダーの弟子シャイフ・トゥースィー(1067年没)もまた師同様、バスラ学派の学説に従っている。
 11世紀以降のイマーム派に対しては、このアブドゥルジャッバールの弟子であるアブルフサイン・バスリー(1044年没)が大きな影響をおよぼすことになる。ただし彼は重要な問題においてはバスラ学派の見解と異なる説をとっており、またキリスト教徒の哲学者イブン=サムフの弟子でもあったため、哲学にも精通していた。バスリーの学説を継承した最初の(素性の知れた)イマーム派の学者は、サディードゥッディーン・マフムード・イブン=アリー・イブン=ハサン・ヒンマスィー・ラーズィー(1204年以降没)である。これ以外にもイマーム派の重要な神学者としては、ナスィールッディーン・トゥースィーやヒッリー、マイサム・イブン=マイサム・バフラーニー(1300年没)、ファーディル・ミクダード・スユーリー(1423年没)などが挙げられる。

2) 逍遥学派哲学
イブン=スィーナーの逍遥学派哲学はガザーリー(1111年没)やファフルッディーン・ラーズィーによる攻撃以降、スンナ派世界では大きく意義を失っていた。これを再興させたのが、ナスィールッディーン・トゥースィーである(ただし彼はイマーム派)。彼はまたアゼルバイジャンのマラーガに天文台を建設し、哲学的伝統の再生に関心のある自然科学者・哲学者らを招集した。このマラーガのサークルには、カーティビー(1277年没)、クトゥブッディーン・ラーズィー(1365年没)、アブハリー(1264年没)といった哲学者の他にも、アフダルッディーン・カーシャーニー(1213/4-68年のあいだに没)やシャムスッディーン・キーシー(1296年没)のような神秘主義の伝統を引く人物も属していた。

3) 照明哲学
スフラワルディーの照明哲学が広く受容されたのは、主としてイブン=カンムーナ(1284/5年没)とシャフラズーリー(1288年没)という、13世紀を生きた2人の哲学者による。イブン=カンムーナは独立した哲学著作やイブン=スィーナー『指示と勧告の書』への注釈などをあらわしているが、それ以外にもスフラワルディーの4部作の1つ『示唆Talwihat』への注釈も残している。後代のイマーム派哲学者たちの多くはこの『示唆注釈』の存在を知っていたようである。他方でシャフラズーリーはスフラワルディーの『示唆』と『照明哲学』の両方に注釈を付しており、また『神の木al-Shajara al-ilahiya』という百科全書的な哲学書もものしている。なかでも『神の木』はイマーム派内でのスフラワルディー受容に相当な寄与をなしたようであり、イスファハーン学派の代表者(ミール・ダーマード[1631年没]やモッラー・サドラー[1640年没]?)もこの書のことは知っていたと見られる。
 とはいえ、イブン=カンムーナとシャフラズーリーよりも早い時期にスフラワルディーの照明哲学を詳細に論じた人物がいたことも事実である。それが(2)で触れたアブハリーである。イブン=カンムーナもシャフラズーリーも彼の見解にはしばしば言及している。アブハリーは主著の1つ『叡智の導きHidayat al-hikma』の末尾で、イブン=スィーナーとスフラワルディーの学説について論じた『神秘の精髄Zubdat al-asrar』という著作への参照を促している〔なおSchmidtke は『神秘の精髄』を散逸した著作と見ているが、実際には現存している;この著作はバルヘブラエウス研究(?)においても重要らしい〕。また彼は『神秘の解明における思考の限界Muntaha al-afkar fi ibanat al-asrar』という著作も残しているが、これについてはイブン=カンムーナが時折引用している。さらに『神秘の開示Kashf al-haqa'iq fi tahrir al-daqa'iq』においては、アブハリーは明らかに照明哲学の諸学説を継承している。ただしそもそも彼の諸著作がそれほど広く受容されたわけではないことを考えると、照明哲学の受容に際してアブハリーがどれほどの役割をはたしていたかは微妙である。
 照明哲学を完全に継承した最初のイマーム派の思想家は、14世紀のクトゥブッディーン・シーラーズィー(1311もしくは1316年没)である。スフラワルディーの『照明哲学』に対する彼の注釈は、同書に対するシャフラズーリーの注釈から強い影響を受けている。彼の独立の著作『王冠の真珠Durrat al-taj』(ペルシア語で書かれた照明哲学に関する著作)からもまた、シャフラズーリーの影響は見てとれる。ただし彼はイブン=カンムーナの『示唆注釈』のことも信頼していたようである。
 15世紀におけるスフラワルディー信奉者としては、ダウワーニー(1502年没)が挙げられる。彼はスフラワルディーの『光の拝殿Hayakil al-nur』に対する注釈(Shawakil al-hur fi sharh Hayakil al-nur)をあらわした。16世紀になると、ダシュタキー(1541)という人物が現れ、このダウワーニーによる注釈に対して批判を加えることになる。そして17世紀になると、ニザームッディーン・ハラウィーがインドで、スフラワルディーの『照明哲学』に対して注釈を付し、また同書をペルシア語に翻訳した(『照明哲学』の現存する唯一のペルシア語訳)。ハラウィーは『叡智の光明Siraj al-hikma』という照明哲学に関する独立の書もあらわしたが、これは散逸してしまったと見られる。

4) 存在一性論
イブン=アラビーと彼の学派も、13世紀以降のイマーム派思想に対して消えることのない強い影響を与えた。彼の思想の受容に大きく寄与した人物としては、クーナウィー(1274年没)、ティリムサーニー(1291年没)、ファルガーニー(1296年没)、ジャンディー(1300年頃没)、イラーキー(1289年没)などがいる。他にもカーシャーニー(1335年没)やカイサリー(1350年没)が広く読まれたようである。なおカイサリーはイブン=アラビーの『叡智の台座Fusus al-hikam』に対して注釈を付しているが、この注釈の冒頭にはイブン=アラビーの学説を体系的に論じた序文がさらに付されている。このカイサリーの序文は後代しばしば引用されることになり、序文への注釈も数多く書かれた。
 イマーム派の下では、イブン=アラビーの学説はジャマールッディーン・アリー・イブン=スライマーン・バフラーニー・スィトラーウィー(13世紀前半頃活躍)とハイダル・アームリー(1385年以降没)によって継承された。イブン=アラビー(およびスフラワルディー)の学説の影響は、ラジャブ・イブン=ムハンマド・イブン=ラジャブ・ブルスィー(1411年没)とイブン=トゥルカ(1427年没)の諸著作から見てとれる。この15世紀という時代を代表する思想家たちのあいだで際立った位置を占めるのが、ジュムフールである。もともとはムウタズィラ派の影響を受けた神学者でありながら、彼は後期のKitab al-mujli (=上掲[4])という著作において、イマーム派の思想家としてはじめて、これら4つの思想潮流の統合を試みたのである。

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