Donnerstag, 26. Mai 2011

universale logicumとkulli mantiqi

昨日からいわゆる形而上学的普遍と論理学的普遍についての短い注を書いていたのですが、その中で西欧中世哲学とアラビア哲学との間に、これら2つの語の使用法をめぐって微妙な(大きな?)差異があることに気付きました。問題となるのは、論理学的普遍の方です。

西欧中世哲学では、形而上学的普遍(universale metaphysicum)とはアヴィセンナ的な「本性(natura)」のこと。つまり事象の側にあるとされる、普遍を語るための基盤のようなもので、あの「馬性は馬性でしかない」という格率における「馬性」のことを指します。他方で論理学的普遍(universale logicum)とは、複数のものの述語となるもの。いわば現実態における普遍です。しかしながらアラビア哲学においては、そもそもこの「形而上学的普遍」という術語自体が(少なくとも私の知る限りでは)現れません。「形而上学的何性 / 論理学的何性」というペアは現れるのですが、これは問題の「形而上学的普遍 / 論理学的普遍」というペアとは異なるものです(全く無関係ではないのかもしれませんが、たぶん完全な対応はありません)。アラビア哲学に現れるのは、「論理学的普遍」の方だけです。

とはいえ、形而上学的普遍である「本性」という概念自体がアヴィセンナ由来であることからもわかるように、対応する概念は確かに存在します。それがnaturaという訳語の元にあるtabi'ahというアラビア語です。いやいや、そもそも「形而上学的普遍 / 論理学的普遍」というペア自体が、恐らく西欧中世哲学由来のものなのだから、そのものズバリの術語がアラビア哲学になかったところで、何の問題もないだろう、と思われるかもしれませんが、ここで問題となる(ように思われる)のは「形而上学的普遍」という術語が文字通りにアラビア哲学で用いられていたかどうかではありません。むしろ一見、概念的に対応するかに見えるuniversale logicumとkulli mantiqiがどうも意味合いを異にしているようだ、という点です。

アヴィセンナ以降のアラビア哲学では、普遍者はしばしば次の3種に分類されます:(1)論理学的普遍者(kulli mantiqi);(2)本性的普遍者(kulli tabi'i);(3)知性的普遍者(kulli 'aqli)。(1)は「普遍者(ないし普遍性?)」という概念そのもの、(2)は普遍性が付帯するための対象として捉えられた限りでの何性(これがアヴィセンナの「本性」と一致するかどうかについては、哲学者間で見解の相違があるようです)、そして(3)は普遍性が現実に付帯した限りで捉えられた何性(例えば普遍的な人間)のことを指します。つまり西欧中世哲学のuniversale logicumとアラビア哲学において対応するのは、kulli mantiqiではなく、むしろkulli 'aqliのようだ、ということです。

もちろんこのような紋切り型の整理からはみ出すような用例も少なくないのでしょうし(少なくともアヴィセンナ自身は『治癒の書』形而上学第5巻第1章で、複数のものの述語になるようなもののことを「論理学で用いられる普遍者(al-kulli al-musta'mal fi al-mantiq)」と言っています)、また私が知らないだけで実は上の普遍者の3区分は西欧中世哲学においても現れるのかもしれませんが、とにかくuniversale logicumもkulli mantiqiもいずれも「論理学的普遍者」と訳せるであろうに、その実、微妙に意味合いがズレており、しかも一方で「論理学的普遍者」と訳されるような概念が他方で「知性的〔つまり知性内に存在する〕普遍者」と訳されるような概念に対応するのか、ということに今更ながら気付いたわけです。

Keine Kommentare:

Kommentar veröffentlichen