Freitag, 10. Dezember 2010

ファナーリーの形象論16

先日から、山内志朗『普遍論争:近代の源流としての』(平凡社、2008年)を読み直しています。その中で、1年半ほど前からずっ と気になっていた或る疑問を解決してくれそうな記述に気づきました。疑問の発端となるのは、『プラトン的知性的諸形象』に出てくる「数学的なもの / 自然学的なものにおいて」(fi al-ta'limiyat / al-tabi'iyat)という表現です。この表現は例えば「知性的形象は数学的なものにおいて(或いは「の中に」?)存在する」というかたちで現れます。しかし実際にそれが用いられるのは、どう見ても知性的形象の離存が論じられている文脈。実際、このfiの代わりにli(…のもとにある / …を有する)という前置詞が用いられる場合もあります。とすれば、一見すると「離存」と正反対の意味を表わしそうな「…において(…の中に)存在する」という表現が、ここでは離存そのものを表わす、或いは離存そのものに直結するような或る事態を表わす、ということになるのでしょうか

こうした疑問に答えてくれそうな記述が、同書
72-9頁に現れます。同所で山内は、13世紀の普遍論争においてしばしば登場する「普遍」をめぐる4つの格率について論じます。

1) アヴィセンナ『形而上学』:「馬性はそれ自体では馬性でしかない」
2) アリストテレス『デ・アニマ』:「普遍は無であるか、さもなくば(個体より)後のものである」
(402b5-9あたり)
3) アヴェロエス『デ・アニマ大注解』:「知性が事物の中に普遍を構成する」
4) テミスティウス『デ・アニマ注解』:「類(=普遍)とは諸個体の類似性をとりまとめて得られた概念である」

今回私が気になったのは、このうち2のアリストテレスの格率に対するアヴェロエスの注解(『霊魂論大注解』)です。

普遍は二つの仕方で語られる。つまり、事物の本性の中にあるか、または知性の内にあるか、としてである。
前者のように事物の本性の中にあるとすると、プラトンが述べたように、イデアつまり個物から離れた普遍を設定することになるが、これはアリストテレスが十分示したように、ありえないことである。したがって、事物の本性の中にある普遍などというものは無であり、存在しない。もし、普遍が、無でなく、何か存在するものだとすると、個体の後にくるものであり、知性の内に概念としてある(73頁)。

大切なのは下線部です。アヴェロエスによれば、普遍者が事物の本性の中にあるとしたら、プラトンが主張したように、イデアの離存説を主張することになってし まう。これは一見してわかる通り、「…において / …の中に」が離存に直結するという上記の考え方と重なるものです。基本的に、イスラーム圏ではアヴェロエスは読み継がれなかったと言われているので、『プラトン的知性的諸形象』の中にアヴェロエスによるアリストテレス解釈の影響を見ようなどというのは、早計です。恐らくはこういった考え方が、プラトン・ア リストテレスにおいて既に示されているのでしょう。ということで、基本中の基本ですが、離存的イデアをめぐるプラトン・アリストテレスの見解を扱った研究を、少し調べ直そうと思います。

すぐに思いつく限りでは、比較的新しいところだと、次の2点があります。1は未読、2は既読ですが読み直します。これ以外にも、何か特に重要な研究などありましたら、ご教示いただけると幸いです。

1) 岩田圭一「類とエイドス : アリストテレスの実体論におけるイデア論批判の意義」『哲學年報』69 (2010), pp. 41-82.
2) 菅野幸子「アリストテレス『形而上学』M巻第1-第3章の一考察」『哲学・科学史論叢』6 (2004), pp. 169-99.

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