Dienstag, 22. Juni 2010

沼田、松本

そろそろ〆切間近のJanssens宛リストの作成に向けて、以下の3本を読みました。ものすごくざっと読んだだけなので、きちんと理解できていないところが多いですが、一応雑感です。

1. 沼田敦「理性的魂の準備は能動知性からの作用を必然化するの か:イブン・シーナーの知性認識理解が含む一問題 」『中世思想研究』38 (1996), 81-87頁.

理性的魂が準備されることで、知性認識(=能動知性からの照明)は必然的に起こるのか否か、という問題についての考察。これは先行研究では議論されていない問題だが、「イブン・シーナーの知性認識論に対する理解を深めてゆく上で、必ず議論の対象となると思われるので、あえて本論の主題として選んだ」、とのこと(81頁)。知性認識論に関しては全く勉強不足のため、よくわからないのですが、少なくとも議論の導入としては不十分な印象。

2. 同上「イブン・シーナーの「存在者」の二側面:「非構成要素」と「認識 の第一の始源」」『中世思想研究』43 (2001), 117-129 & 270頁

英文要旨から一番の主張は何となくわかったものの、それを示すまでの議論自体は難しくてほとんど理解できませんでした。ただ、3つほど気になる点が。

1) 固有存在(al-wujud al-khass; 沼田氏の訳では「特殊存在」)を「神や離在知性中にのみ見出される端的な本質の存在」としている点(118頁)。
これはどうも違うような…。イブン=スィーナーはそう言うのでしょうか。少なくとも彼以降の哲学者たちにおいては、神以外の可能的なものどももそれらに固有の固有存在をもつとされるはずです。というか、確かイブン=スィーナーも『治癒の書』「形而上学」のどこかで、「三角形」のもつ「三角形性」や「白いもの」のもつ「白いもの性」といったような、そのものがそれを通じてそれであるところの実相(haqiqah)のことを固有存在と言っていたはずですが。。どうなんでしょうか。

2) イブン=スィーナーは存在のアナロギアを認めていなかったようだ、と言っている点(
118頁)。
これは単純に「そうだったっけ」程度の引っかかりです。彼以降の哲学者たちは概ね存在の類比性を認める立場だったような気がしますが、どうなんですかね。

3) 本性においてよりよく知られるものが種的本性だ、という記述(121頁)。
イブン=スィーナーは「よりよく知られるもの」(a'raf)を知性 / 本性 / 感覚という3つの観点から分析しているそうです。彼曰く、知性においてよりよく知られるものは最も普遍的なもの(「存在者」という概念はこれに属する)、本性においてよりよく知られるものは種的本性、そして感覚においてよりよく知られるものは個物とのこと(『治癒の書』カイロ版「自然学講義」8頁)。この論文自体を離れて、個人的にこれは非常に気になります。原文に当たってみる必要がありそうですね。

3. 松本耿郎「イスラーム哲学における「愛」についての考察:“清浄の同胞団”とイブン・スィーナー 」『サピエンチア:英知大学論叢』35 (2001), 1-20頁

イフワーン・サファー『論集』所収の『愛の本質についてFi mahiyat al-'ishq』という論考と、イブン=スィーナーの『愛についてRisalah fi al-'ishq』の内容比較。
前者は「愛」についてアラビア語で書かれた最も初期の論考の1つで、後者(イブン=スィーナーが恐らく晩年近くに執筆したもの)は、どうもこれを参考に執筆されたのではないか、と言われているのだそうです(Fackenheim, ''A Treatise on Love by Ibn Sina'' [1945] )。どちらも「愛」について宇宙論レベルで語るようですが、いくぶん興味を引かれたのはイフワーン・サファーの議論の方。彼らは至上の愛を理性的魂による神への愛と捉え、それ以外の植物的魂や動物的魂のもついわば低劣な欲望のようなものとしての愛をそれより低次の愛と捉えるらしいのですが、にもかかわらず、彼らは後二者の愛についても魂を忘却と無知から呼び覚まし、物質世界から解放し、そして霊的世界へと導くという究極目的(al-gharad al-aqsa)をもつ、と考えるのだそうです。ちなみに英文要旨を読めばこれら2つの論考を取り上げる意味は理解できるのですが、本文の序論自体は冗漫で、しかもその後の本論の導入にもあまりなっていないように思われました。何故、英文要旨のように書かないのだろう…。

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