Dienstag, 10. November 2009

補訂作業その3: 実在的存在と不定詞としての〈存在〉

査読者から頂いたコメントの中に、三章(〈関係〉の定立)の議論がわかりにくいというものがありました。わかりにくいというか、飛躍が含まれているのでは、という指摘です。三章は一ヶ月半くらい前にも先輩のY さんから色々と指摘を頂いた箇所で、やはり問題含みだなと改めて痛感しております。ということで、今回再びテクストを読み直してみましたところ、お前の目は節穴かと言われそうですが、投稿時には気付かなかった或る問題に気付きました。

ファナーリーは、〈存在〉(これも前から考えていることで、査読者にも指摘されたのですが、「〈存在〉」ではなく、「存在」とすべきかもしれません)には「実在的存在」と「関係的存在」という二つの意味があると言います:

〈存在〉には二つの意味がある。第一のものが名詞で〈非存在〉('adam)に矛盾対立し、「実在的存在」と呼ばれる。他方で第二のものは「存在する」の不定詞で、「存在者性=存在者であること」の意味で用いられる。(中略)そしてこれは或るもののもつ「打たれる者性=打たれる者であること」のようなものだ。

الوجود له معنيان احدهما خلاف العدم ونقيضه، وهو اسم ويسمى الوجود الحقيقي وثانيهما مصدر وجد يستعمل بمعنى الموجودية، اعني كون الشيء له الوجود الاول او موقعه او محله، ويسمى الوجود الاضافي كمضروبية الشيء.

Fanari, Misbah al-uns, pp. 152-3, par. 3/273, lines 1-4.

これを読む限りではなるほどといったかんじなのですが、しかしこの中に確かに問題の種が存在します。ここで押さえておくべきは、「実在的存在→名詞、関係的存在→『存在する』の不定詞(=存在者性)」という対応、並びに関係的存在(=存在者性)と打たれる者性との間のアナロジーです。

問題となるのは、この対応・アナロジーがどうもこの直後の議論において保存されていないように感じられる、という点です。ファナーリーは以下のように続けます:

寧ろより正確に言えば、真理は以下の通りである。「打撃」は「打つ者」と「打たれる者」との間の関係である。関係とは[そもそも]それに関係付けられる〔或いは帰属させられる?〕二つのものに対する関係であり、打撃の打つ者に対する関係が「打つ者性」と呼ばれ、打たれる者に対する関係が「打たれる者性」と呼ばれる。そしてこれらのいずれもが hasil al-masdar と呼ばれるのであって、masdar と呼ばれる訳ではない。

بل التحقيق ان الضرب نسبة بين الضارب والمضروب والنسبة نسبة الى منتسبيها ونسبة الضرب الى الضارب يسمى ضاربية والى المضروب يسمى مضروبية و كل منهما يسمى حاصل المصدر لا مصدرا.

Ibid., lines 4-6.

masdar は「不定詞」です。他方でhasil というアラビア語はhasala(生じる)の能動分詞形なので、直訳すると「生じるもの」とでもなるような語です。なのですが、それ以外にも「意味、内容、骨子」とかいうような意味をもつことがあります。hasil al-masdar のhasil は、恐らくこの「内容」という意味なのではないかと思います。つまり「不定詞の内容」、これがhasil al-masdar の訳語でしょう(あまり自信はないですが)。

いずれにせよ、ここで最も注目すべきは最後の一文です。ここにおいて「打つ者性」と「打たれる者性」は不定詞でないと言われています。「存在者性」とのアナロジーが指摘された「打たれる者性」が「不定詞ではない」と言われている訳です。関係的存在が「存在する」の不定詞で、「存在者性」の意味で用いられるのであれば、ここからの類推で「打たれる者性」も不定詞とされるのが自然でしょう。にも拘らず、です。明言はされていませんが、ここで不定詞とされているのは、寧ろ「打撃」であると考えられます。

このように先に触れた対応・アナロジーが早くも破綻しだす訳ですが、こんな矛盾を孕んだような議論から、ファナーリーは以下のように結論します:

故に存在者性は、丁度打たれる者性が打撃によって[関係付けられる]のと同様に、第一の意味の存在〔=実在的存在〕に関係付けられ〔或いは「に帰属し」?〕、それ〔=実在的存在〕を通じて hasala する。そしてこれが被造物どものもとに hasala するものである。しかし第一の[〈存在〉]はそこに〈存在〉があるところのそれ〔=神〕自体、或いはより正確に言うなら、それそのものなのである。

فالموجودية منتسبة بالوجود بالمعنى الاول وحاصلة منه كالمضروبية بالضرب وهي الحاصلة للمخلوقات. والاول ليس الا لما له الوجود من ذاته بل عينُه.

Ibid., lines 7-8.

これまでの議論から、「打撃」が不定詞で「打たれる者性」が 不定詞の内容である、という点はほぼ間違いないでしょう。ところがここでファナーリーは、存在者性(=関係的存在)は、不定詞の内容である「打たれる者性」が不定詞である「打撃」に関係付けられるような仕方で、実在的存在に関係付けられる、そして存在者性は実在的存在を通じて hasala する(=生じる)もの(al-hasilah min-hu)だ、と主張します。

ここから解釈上の可能性としては以下の二通りが考えられるように思います:

1. 不定詞から不定詞の内容が生ずるプロセスと実在的存在から存在者性(=関係的存在)が生ずるプロセスの間には、完全な対応関係がある:実在的存在→不定詞、関係的存在(=存在者性)→不定詞の内容

2. 両者の対応関係は、完全な対応ではなく、フェーズの異なる対応である:実在的存在→名詞、関係的存在→不定詞(=名詞のhasil ?)、存在者性→不定詞の内容

2 については私的思弁がかなり入っているので、解釈としてはかなり危ういです。ならば、選択肢1 を採るしかないだろう、と思う訳です。確かに二つ目の引用テクストの冒頭部に現れる「寧ろより正確に言えば」(bal al-tahqiq)というフレーズの担う役割をいくぶん大きめに解釈すれば、ここにおいて「実在的存在→名詞、関係的存在→不定詞」という対応から「実在的存在→不定詞、関係的存在→不定詞の内容」という対応への言い換えが為されていると判断することもできるでしょう。

ところが、です。どうやら存在一性論においては、不定詞としての〈存在〉は実在としての〈存在〉ではなく、概念としての〈存在〉を代表するものと考えられていたようなのです。例えばジャーミー(1492 年没)は自著『高貴なる真珠』Al-Durrah al-fakhirah に対する傍注の中で、以下のように言っています:

知れ。〈存在〉、「あること」「定立」「生ずること」「実現」〔恐らくここでは、これらは全て〈存在〉と同義のものとして言及されている〕の意味は、それらによって不定詞的な意味が意図されているなら、外界にある如何なるものもそれと対応しないような第二次思惟対象の心的概念である。

اعلم ان معنى الوجود والكون والثبوت والحصول والتحقق اذا اريد بها المعنى المصدري مفهوم اعتباري من المعقولات الثانية التي لا يحاذي بها امر في الخارج.

Jami, Hawashi al-Jami 'ala al-Durrah al-fakhirah, ed. N. Heer, p. 53, lines 9-10.


校訂者Heer の訳注(Jami, The Precious Pearl, trans. N. Heer, p. 108, note 2 of Gloss 5)によれば、このような議論はカイサリー(1350 年没)の『叡智の台座注釈』Sharh Fusus al-hikam 中にも見られるもののようです(Ashtiyani 版ではpp. 14-9 と対応)。その為、彼の記述が揺れているということのみを理由として、ファナーリー自身が明言している訳でもないのに、冒頭で述べられている対応関係を勝手に「実在的存在→不定詞、関係的存在(=存在者性)→不定詞の内容」と読み替えてしまうのは、同様に危うい解釈であると言えるでしょう。

ですが、このような矛盾を孕んではいるものの、ここでのファナーリーの議論が意図するところは明白です。hasil がもつ「生ずるもの」という意味をうまい具合に利用して、「関係的存在(=存在者性)は実在的存在から生じ(hasilah min-hu)、そして被造物どものもとに生ずる(つまり被造物どもが獲得する;al-hasilah li-l-makhluqat)のだ」という点を主張する。これが恐らく彼の意図です。では何故「実在的存在→不定詞、関係的存在(=存在者性)→不定詞の内容」と明言しないのか。それはやはり存在一性論内部の「不定詞としての〈存在〉→概念としての〈存在〉」という理解の伝統に反するからなのではないでしょうか。彼のここでの議論は存在一性論の枠内に留まりつつ、文法学の議論を可能な限り取り入れようとしたものなのだと思います。ただそうするとどうしてもその枠からはみ出てしまう部分がある。それが上記のような記述の矛盾として現れているような気がします。

しかしファナーリーは或る箇所では「関係的存在(=存在者性)」を「存在者」としても語っているように思われます。そうすると以上の議論から、概念としての〈存在〉が「存在者」と同定されているのか?という新たな疑問が出てきます。こうなってくるともはや何だかよくわからないのですが、いずれにせよこうして査読者に指摘されている次なる補訂点「〈存在〉と存在」の問題(いつ〈〉を付けるべきか)の考察へと進む訳です。ふう。

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[後日付記]
この記事に対してtok-g さんから丁寧なコメントをいただきました。ありがとうございました。

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