Sonntag, 18. Oktober 2009

予習、時間、かかる

Qunawi, Sadr al-Din al-, Miftah al-ghayb, in Miftah al-ghayb li-Abi al-Ma'ali Sadr al-Din Muhammad ibn Ishaq al-Qunawi wa-sharhu-hu Misbah al-uns li-Muhammad ibn Hamzah al-Fanari, ed. M. Khwajawi, 2nd ed. (Tehran: Intisharat-i Mawla, 1384 [2005 or 6]), pp. [3]-[144].

明日のゼミに備えて、一昨日からそれとなく予習(& 復習)を行っているのですが、これまた遅々として進みません。目下の目標は、明日の朝までに pp. [52]-[55] を訳出すること、、なのですが、昨日は p. [53], lines 2-3 辺りの構文をとっているところで力尽きてしまいました。何という悪文でしょう。。

腹いせに二日間で 6-7 時間くらいかけてようやっと構文がとれた一段落を訳出しておきます(意訳と恐らく誤訳も含む):

そしてこういった諸実相、及びそれらのmithal どもの故に、根源的諸神名から新たに現れてくるのが、密雲の中で起こる存在へ向けての自己顕現を通じて、そしてそれら〔つまり諸実相と mithal ども〕を通じて、神 —— 讃えあれ —— が自身の知の対象となるものどものうちのいくつかを顕現させること〔つまりその顕現させ行為〕である。また存在を賦与する[神の]顔向けが[それに対して]向けられているところのそういった知の対象どもは 'ilm から 'ayn へと〔つまり知的存在から具体的存在へと〕ma'na レベルで〔?〕移行する。そして[神]はこれら三つの普遍的諸実相〔=自然、塵、普遍的物体〕を、そして[神自らが]それらと共有する根源的諸神名を、[そういった ma'na レベルでの]移行とも言い換えることのできる存在賦与への志向性における〔つまり存在賦与へと向かう際の〕条件とした。とはいえ、この段階では移行は[まだ実際には]無いのであるが〔?〕。かくして[神は]これらの諸実相を通じて顕現させたもの〔つまり神の顔向けの先にある知の対象ども〕を、それら〔=知の対象ども〕以外のところへと神 —— 讃えあれ —— の作用が顕れる為の場とし、そしてそれら〔=知の対象ども〕を至高なる自らがこれらの諸実相として自己顕現する為の場とされた〔?〕。それ故これらは彼の自己顕現の諸階梯、降臨の諸宿程なのであり、彼の顕現を映す鏡なのである。


واما الذي تجدد لهذه الحقائق وامثالها من الاسماء الاول كون الحق سبحانه اظهر بعض معلوماته بتجليه الوجودي الواقع في عمائه بها، فانتقلت تلك المعلومات المقصودة بالتوجه الايجادي انتقالا معنويا من العلم الى العين، وجعل هذه الحقائق الثلاث الكلية ،ما يشاركها من امهات الاسماء شرطا في ذلك المعنى الايجادي المكني [を修正 الملكنّي] عنه بالتنقل مع انه لا تنقل هناك. ثم جعل ما اظهر بهذه الحقائق مجالي لظهور اثره سبحانه فيما سواها واقامها مجالي له تعالى من حيث هذه الحقائق، فهي مراتب تجليه ،منازل [を修正 منزل] تدليه ومرايا ظهوره.

Qunawi, Miftah al-ghayb, p. [52], lines 5-11.

構文は恐らく概ねとれているものの、細かいところで意味がとれません。が、仕方ないので先に進もう。と思いつつ、ファナーリーの注釈を見てみると、何やら面白そうな一節が。ファナーリー曰く、イブン=サブイーン(1270 年頃没;アンダルスの神秘家)がクーナウィーに対して以下のように問うたそうです(史実かどうかは知りません):

どこからどこへ。そして間に生ずるものは何か。

من اين الى اين وما الحاصل في البين؟

Fanari, Misbah al-uns, p. 440, par. 4/550, line 6.

これに対してクーナウィーは以下のように答えたと伝えられている(らしい)のですが、これが上の議論と内容的に一致するのだとか:

'ilm から 'ayn へ。そして[その移行の]間に生ずるのは、両者を統合する〈関係〉の、両者の性質を通じて顕れたものとしての〔?〕新たまりである。

من العلم الى العين والحاصل من البين تجدد النسبة الجامعة بين الطرفين ظاهرة بالحكمين.

Ibid., lines 7-8.

うーむ、わかるような気がしなくもないけれど、やはりよくわからない気がする。。〈関係〉が出て来ましたね。

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[後日付記]
p. [54] に入ったあたりから議論が自然学的、と言ってよいのかわかりませんが、何だかコスモロジーめいてきました。同書中でのクーナウィーの論述は何だかあっちに行ったりこっちに行ったりで、先生から頂いた情報ではこの方面での議論も結局わりと断片的なものでしかないらしいのですが、それとは対照的に、私がチラ見した限りでは、ファナーリーは同所に対する注釈で、わりと詳しめに、神の自己顕現(tajalli)を熱と関連付けたりしながら論じています。ファナーリーの方が詳しい議論を期待できるかもしれません(もちろんイブン=アラビーも自然学的な議論を行っているらしく、全てがファナーリーの創意によるものではないでしょうが)。

しかしながら、、私の怠惰が祟って、結局 p. [54] の下の方くらいまでしか訳し終えることができませんでした。くそ、、反省…。

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