ファナーリーは、〈存在〉(これも前から考えていることで、査読者にも指摘されたのですが、「〈存在〉」ではなく、「存在」とすべきかもしれません)には「実在的存在」と「関係的存在」という二つの意味があると言います:
〈存在〉には二つの意味がある。第一のものが名詞で〈非存在〉('adam)に矛盾対立し、「実在的存在」と呼ばれる。他方で第二のものは「存在する」の不定詞で、「存在者性=存在者であること」の意味で用いられる。(中略)そしてこれは或るもののもつ「打たれる者性=打たれる者であること」のようなものだ。
الوجود له معنيان احدهما خلاف العدم ونقيضه، وهو اسم ويسمى الوجود الحقيقي وثانيهما مصدر وجد يستعمل بمعنى الموجودية، اعني كون الشيء له الوجود الاول او موقعه او محله، ويسمى الوجود الاضافي كمضروبية الشيء.
Fanari, Misbah al-uns, pp. 152-3, par. 3/273, lines 1-4.
これを読む限りではなるほどといったかんじなのですが、しかしこの中に確かに問題の種が存在します。具体的に言えば、それはここで言及されている「実在的存在→名詞、関係的存在→『存在する』の不定詞(=存在者性)」という対応、並びに関係的存在(=存在者性)と打たれる者性との間のアナロジーが、この直後の議論において保存されていない、という点です。
これについては色々と考えてみましたが、とりあえずここ数日の結論は、「実在的存在→名詞、関係的存在(=存在者性)→不定詞」という上の引用テクスト中に見られる対応関係を、その直後でファナーリーは「実在的存在→不定詞、関係的存在(=存在者性)→不定詞の内容」へと脳内修正しながら語っているのでは、というものです。
後日再び考え直して、必要な資料を当たるなどした上で、詳細を書きます。
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