Montag, 12. Oktober 2009

オリエント学会第51 回大会(@ 同志社大学)

行って参りました。

私の発表は「ファナーリー存在論における〈関係〉:〈存在〉の内在 / 超越をめぐって」(16:20 から16:50)。

8 月末に投稿した論文から一部を抜き出したもので、しかも投稿後に不安になってきたところを削ったりした為、ゆっくり目に読んで大体20分くらい、というものになりました(私が聴けた限りでは30 分のうち25 分くらい使う人の方が多かったので、これも少し不安でした)。

今回強く思ったのは、聴きに来てくれた人にきちんと伝わるような発表を心がけるべきだということ。当たり前のことですが、内容が伝わらなければその分、質問は量・質のいずれにおいても減じてしまいます。しかも論文だったら、査読者の方々とやりとりができるのかもしれませんが、発表の場合は、わからなければそれっきり、ということになってしまうでしょう。

こんな言い方をするとかなり他力本願ぽくなってしまいますが、やはり発表をすることの大きな意義の一つとして、聴きに来てくれた方々から鋭い指摘をしてもらえる、というのがあると思います。その意味で、多くの質問を頂くことができたという点と、終わった後に「わかりやすかった」という声を何人かの方からかけてもらえたという点で、今回の発表は自分なりには良かったかなと思います。ただ、これも当たり前のことですが、先輩の発表と比べると自分のには格段に深みが足りませんでした。その為、聴き手にとっても同様に良かったと思えるような発表だったかと言うと、甚だ疑問です。精進します。

さて、いくつか頂いた質問の中で、全くうまく答えられず、一瞬フリーズしかけた(というか、たぶん端から見れば、あれはフリーズだったと思います…)のが、〈関係〉の実体化をめぐるものです(これは夙にfenderski さんからもご指摘頂いていたもので、本当にお恥ずかしい限りです)。ファナーリーは〈関係〉を存在者としても語っているように私には思われるのですが、しかしだからと言って〈関係〉を実体的に捉えているということにはならない、とも思います。何故なら存在一性論にとって、あるのは〈存在〉ただそれだけで、〈存在〉以外の存在者は、本当の意味では存在者ではないから。だから〈関係〉を存在者として語っても、〈関係〉が実体的に捉えられているということにはならない。というように、私は考えていました。

でも、目撃一性論(wahdat al-shuhud)の立場なら、そこまで極端に論を進めて、例えば〈存在〉以外の存在者は全て虚妄(khayal)であって、〈存在〉を分有することは全くないと考えるけれど、一般に存在一性論は存在者どもによる〈存在〉の分有を認める、と。確かにファナーリーも「存在者」を「〈存在〉をもつもの」(ma la-hu al-wujud)と定義しています。。

う〜ん、、書いていてまたしてもよくわからなくなってきました…。いずれにせよ、〈関係〉について考える際には、al-wujud al-muqayyad とかhissah についても考察する必要があるようです。

とまれ、聴きに来て下さった皆さん、ありがとうございました。特に発表後、いくつもの拙い質問に快く答えて下さった京都大学の東長先生には謝意の表しようもありません。ありがとうございました。

そして次回は、きちんと余裕をもって準備して、他の発表もきちんと聴けるように早いうちから参加したいと思います。

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