R. Wisnovsky, ''Avicenna and the Avicennian Tradition'', in P. Adamson and R. Taylor (eds.), The Cambridge Companion to Arabic Philosophy (Cambridge: Cambridge University Press. 2005), pp. 92-136.
何とか通読しました。
いや、読みにくい英語です。くどいというか何というか。。
結局この論文では(それ故ひいては恐らくあの本でも)、
1. 古代末期のアリストテレス注釈者たちのエンテレケイア解釈
2. イブン=スィーナーの霊魂論・知性論
3.「存在者」と「もの」をめぐるイブン=スィーナー以前の神学者たちの議論
4. イブン=スィーナーにおける〈存在〉と何性の区別
5. イブン=スィーナーにおける存在必然者
という5 つの問題が扱われています。でもこれら全てが有機的連関の中で、一貫した論理展開の下、論じられているという訳ではなさそうです。実際には1→2、1→5、3→4(→5 ?)という複数の方向の議論が混在しているかんじ(このうち4→5 の議論は論じられてはいるようですが、殆ど理解できませんでした)。
このうちわたしにとって重要であると思われるのは、3→4(或いは4→5 も?)です。これに関しては、イブン=スィーナーが「もの性」(shay'iyah)という語を殆ど「何性」(mahiyah)と同義で使っている(或いは使うことがある?)という点と、〈存在〉と何性の区別についてイブン=スィーナーの記述が3 パターンくらいに揺れているという点が非常に勉強になりました。ただ、彼以降の哲学的神学者たちへの影響などを論じた数ページはどうも…。「疑わしい」と言えるまでの自信はありませんが、少なくとも内容はすごく軽い印象を受けました。
それにWisnovsky によれば、〈存在〉と何性の区別は「両者は外延においても内包においても等しい」とか「外延においては等しいが、内包においては異なる」とか、そういう議論のようです。でも、これは概念レベルに限定された議論ではないでしょうか。わたしが知りたかったのは寧ろ、実在レベルでの議論と概念レベルでの議論がどう折り合いを付けて論じられるのか、です。ちょっとがっかりでした。
とはいえ、これはあくまでサマリー的な論文でしかない訳ですから、一応 R. Wisnovsky, Avicenna's Metaphysics in Context (Ithaca, New York: Cornell University Press, 2003) のほうも読んでみます。そして今晩は再びタフターザーニーを読み返してみます。
Keine Kommentare:
Kommentar veröffentlichen