Freitag, 6. September 2013

デル・リオ・サンチェス「アラビア語ガルシューニーとマロン派アイデンティティ」

Del Río Sánchez, F. (2013): Arabic-Karshuni: An Attempt to Preserve Maronite Identity: The Case of Aleppo”, The Levantine Review 2/1, 3-11.

前回の記事からのつながりで、レバノンのマロン派キリスト教徒が残したアラビア語ガルシューニー史料についての論文です(本文はこちらのページからダウンロード可)。前回の記事で確認したとおり、17 世紀以降、レバノンのマロン派教徒を中心として、一種の古典アラビア語ルネサンスとも呼ぶべき現象が起こったと、著者のSamir は論じていました。彼によれば、マロン派教徒は当時のローマ・カトリックと蜜月な関係を築いていて、この街でイタリア・ルネサンスの成果を存分に吸収しました。そして帰還後、自分たちがローマで学んできたラテン語・イタリア語等の重要文献を大量にアラビア語訳するなかで、郷里での信仰活動を活発化させ、またイスラム教徒との融和を求めて(論争書ではなく)護教論を著し、そしてさらに当時一般信徒のあいだで大きく落ち込んでいたアラビア語能力の底上げも図ることによって、その後の中東地域でのアラビア語文化興隆に対しても大きく貢献したのだ、というのが Samir の理解でした。ところがそんなピースフルなサクセス・ストーリーばかりではなかったというのが、この Del Rio Sanchez の論文の主旨。あまり論証的な文章ではありませんでしたが(特に結論部)、なるほどと思う点もあったので、簡単に内容をまとめておきます。

まず彼はマロン派のアレッポ首都大司教座(キリスト教聖職者の位階名はややこしくて疎いのですが、the Maronite Muṭrāniyya [Metropolitan See] of Aleppo のことです)に所蔵されている 1640 点の写本を調査します。彼によれば、このコレクションは(アラビア文字を使用した)アラビア語写本が 1256 点、シリア語写本が 134 点、そしてアラビア語ガルシューニー写本が 250 点という構成になっています。なお書写年代は基本的にすべて 15-20 世紀で、全体の 9 割はアレッポ市内で地元のマロン派教徒が書写しているとのこと。なるほど、たしかにこの数字だけから判断するならば、少なくともアレッポにかぎって見れば、アラビア語ルネサンスと呼べるような現象は実際に起こっていたように思えます。ところが、とここで著者は、今度はガルシューニー写本のみに着目します。まず書写(ないし成立)年代。著者によれば、大半のガルシューニー写本は 16-18 世紀に成立しています。たしかに 14 世紀以前に成立した写本も少ないながらあるそうですが、それらにおいてガルシューニーは書名と奥付(あるいは簡単なメモないし註釈)のみというほんの部分的な用途でしか用いられていないらしく、一冊の書全体がガルシューニーで書かれはじめるのは 15 世紀以降、とりわけ大量の写本が成立しはじめるのは 16-18 世紀なのだそうです。次にジャンル。ガルシューニーで書かれた写本の多くは、イスラム教論駁・哲学・神学・歴史のいずれかに関するもの、つまりイスラム教に対するキリスト教の優越を主張する内容のものだったとのこと。

著者によれば、これにはおそらく 1716 年にレバノンで開かれたある教会会議(Synod)が関係しているのだとか。彼によると、レバノンのマロン派はこの会議において、神学・典礼・哲学・文法に関するあらゆる書物中でのアラビア文字表記を禁止し、ガルシューニーを共同体の公的書字法と規定しました。そしてこの決定には、アレッポの大司教(Archbishop)であったゲルマーノス・ファルハート(1732 年没)の方針(ガルシューニーを使用することでシリア語的な書字法を護持)が何らかのかたちで影響していたのだろう、というのが著者の見立て。まぁ、ファルハートの影響云々は置いておくとしても、それでは何故マロン派教徒たちは、このような反アラビア文字・親シリア文字方針を選択することになったのか。これは一方でローマ・カトリックからの、他方でオスマン朝からの同調圧力が原因だったと、著者は推測します。たしかに一部のマロン派教徒たちはイタリア留学を通して、ローマ・カトリックに少なからぬシンパシーを感じていたと考えられます。また一般にオスマン朝下では、異教徒たちに一定の信仰の自由が保障されていたのも事実です。しかし支配される側の感情はそれほど単純なものではなかったのでしょう。彼らはこの二方向からの強大な政治的圧力を前にして、シリア文字が媒介する豊かな文化的遺産に着目します。古代から連綿とつづくシリア語文化との連続性を暗に示すことで、他のキリスト教徒とイスラム教徒双方に対して、自分たちの文化的優位をほのめかし、さらにその優位性の主張を(シリア文字を読めない)彼らの目から覆い隠す。このようにして、ガルシューニーは政治的弱者であるマロン派教徒たちが自らの宗派アイデンティティを守りぬくための精神的な拠りどころとなっていたのだ、というのが本論文の結論です。しかしそれでは現に残されている大量のアラビア語写本はどう説明されるのかとは思いましたが、これについては何の説明もなし。ガルシューニー写本とは成立年代がズレているのか、はたまたジャンルによって使い分けがなされていたのか。リンク先の academia.edu には、この写本調査の結果をまとめた 3 本の論文がアップされているようなので、そちらから確認するしかなさそうです。

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