形象論がそう簡単にはまとまってくれなさそうなため、ひとまず形象論(を援用した絶対存在の離存証明)において前提の一つとなっているように思われるファナーリーの存在種説について、がんばってまとめようと思います。7月末の発表はこれで行くのが目標です。
存在は種だという考え方は、後代のタフターザーニーによる言及を信頼すれば、イブン=スィーナーに端を発する存在付帯性論争の中でファフルッディーン・ラーズィーが唱えた学説のようです。しかしまだまだファナーリー自身の証言も満足いくほどには取れていないし、ラーズィーに至っては証言自体が全く取れていません。更に管見の限りでは、イブン=スィーナーが「存在は何性にとっての付帯性である」という風に言っていたと思われる一方で、ラーズィーやタフターザーニー、ファナーリーは「存在は固有存在ども(あるいは限定存在ども)にとっての種だ / 種ではない」と言っているようです。つまり「何性」が「固有存在(あるいは限定存在)」とかたちを変えてしまっているという点も問題になりそうです。
いずれにしても、こうした状況の中、数日ほど前からラーズィーの『叡智の源泉注釈Sharh 'Uyun al-hikmah』(イブン=スィーナーの『叡智の源泉'Uyun al-hikmah』に対する注釈)「形而上学」を読むともなく読んでいます。ちなみに同書はGriffel, F., ''On Fakhr al-Din al-Razi's Life and the Patronage He Recieved'', Journal of Islamic Studies, 18 (2007), pp. 313-44曰く、ラーズィーの比較的後期の著作であるようです。現状では議論にきちんと着いていけていないのですが、それでも一箇所、興味深い記述に出会いました。「存在は実体なのか付帯性なのかという問題については、既に『カテゴリー論』のところで論じてある」という記述です。当たり前といえば当たり前のことなのですが、何故かいままで全く気付きませんでした。「カテゴリー論」では実体と付帯性について論じられている以上、存在付帯性説もここに関わってくるのではないか。少なくともパッと見、そう見えなくもありません。欲しい記述に出会えるかどうかはわかりませんが、「形而上学」のコピーした箇所に目を通し終わったあとは、「カテゴリー論」に当たってみましょう。
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