「ファナーリーの形象論」としてはひさびさのエントリーになってしまいました。面目ないです。相変わらず劇的な進展はないのですが、ここ一か月(二か月?)、ファナーリーの証明は以下のような流れで展開されているのではないかと思うように なりました。
P: 絶対存在は固有存在どもにとっての種である。
Q: 種は個物から離存する。
R: 故に絶対存在は離存する。
つまり「ファナーリーの証明は、この命題PとQがいずれも真であるという点を示すことで遂行されている」。もちろんこれ以外にも様々な論点が取り上げられていて、ここまでことを単純化してしまってよいのかという疑問もあるのですが、最近は概ねそう考えるようになりました。しかしこのうち実際に形象論が関わってくるのは、恐らくQのみです。形象論は命題Qが真であるということを示すために(それのみのために)援用されているのであり、形象論によって命題Pが真であるという点まで示されることはない、と私は(少なくとも今は)考えています。
命題Pが真であるということは、寧ろ「本質的要素(dhati)は強弱を受容する」という点を示すことによって証明されています。(恐らく多くのイスラム哲学者たちにおいて)絶対存在は類比的なものであるため、強弱を受け入れると考えられます。それ故、存在を種として語るためには、本質的要素も強弱を受け入れるとせねばなりません(但しこう見ると少なくともここでは「種=本質的要素」と考えられているようにも思えますが、両者の関係についてはもっと慎重に考察してみなければならないでしょう)。確かにファナーリーは『親密の灯』中では、存在と種の関係、本質的要素と強弱の関係、そして本質的要素と種の関係などについて、それほど詳しくは論じていないように見えるし、そのため他の論理学著作を参照することで、彼の議論を補完する必要は出てくる(つまりファナーリー自身がどこまで具体的に語ってくれているのかという問題はつきまとう)わけですが、少なくとも話の流れとしては、命題Pの証明はそれほどわかりにくいものではないと思います。
しかし命題Qの証明については、相変わらずわからないことが多いです。そもそも形象と種がどのような関係にあるのか明らかでない。そのため、まず両者の間にある関係を明らかにし、しかる後に「形象の離存証明」が「種の離存証明」となるメカニズムを探る必要があります。
スフラワルディーによれば、形象をもつのは物体ども(ajsam)のみであるそうです。そしてこの「物体ども」が「種ども」(anwa')と「個物ども」(ashkhas)とに分けられ、前者のもつ形象が質料から完全に離れた知性の対象、光の性質をもつ「プラトン的形象」(mithal Aflatuni)であり、後者のもつ形象が質料から不完全なかたちでしか離れていない、想像力の対象である「中間的形象」(mithal mu'allaq)である、とされます。ファナーリーも『プラトン的知性的諸形象』の著者もこのスフラワルディーの見解を引用しており、概ねこの分類に従っているのではないかと思います(とはいえ、確証もありませんし、そもそもそれが本当にスフラワルディーの見解と一致するものであるのかを検証してみる必要があるでしょう)。
いずれにしても、これを図示すると以下のようになります(但し中間的形象と種の関係は不明)。
重要なのはこの分類においては、種は質料的なものでしかないとされている、ということです。つまりこれに従った場合、「絶対存在は種である」→「絶対存在は質料的なものである」ということになってしまうわけです。これはおかしいでしょう。となると、ファナーリーはこの構図には従っていないのでしょうか…。
まだまだ先は長いです。
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