Mittwoch, 27. Januar 2010

ファナーリーの形象論6

昨晩から比較的集中して、p. 428 まで来ました。目指すところまで、あと2 ページ弱です。そもそもこの箇所を分析対象として選んだのは、絶対存在の外界における存在を証明する際に「形象」というものが重要な役割を担うらしいからなのですが、現状ではいまひとつ絶対存在論と形象論との接点を見出せていません。ファナーリー自身が「形象についての議論は、絶対存在についての議論へとつながっていく」 と言っていることからも、接点があるということは間違いないと思うのですが、それがどこにあるのか、どうも探り当てられないでいます。これがあくまで私の側の読み込み不足に起因するのならよいのですが(よくはないか…)、ファナーリーが決定的な証言を行っていないというところに起因するのだとしたら、その場合は『親密の灯』の他の箇所で、或いは他の著作中で、同様の (或いは関連する)問題が論じられていないかを探す必要があります。

そんな中、以前から気になっていたファフルッディーン・ラーズィーの議論に対する肯定的な参照がここでも為されているのを確認しました。彼曰く、外界において存在する全ての人間が共有するのは、理性内的人間(insan 'aqli)ではなく、外的人間(insan khariji)なのだそうです。この考え方は知性的諸形象(al-muthul al-'aqliyah; 質料から完全に離存した形象)を定立する際の根拠の一つとして挙げられているので、ファナーリーの議論において重要な位置を占めるものなのではないかと期待されるのですが、どうもわかるようでわかりません。とにかく手持ちのラーズィーの著作を参照したり、タフターザーニーの『神学の目的注釈』関連箇所を読み直すなどして、ラーズィーのこの発言がどういう文脈で為されたものなのかを確認する必要があります。

そして明日の朝までにp. 430 まで訳し切れるよう努めます。

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