Freitag, 25. September 2009

ズガール「アヴィセンナにおける関係」読書メモ1

以前言及した H. Zghal, ''La relation chez Avicenne'', Arabic Sciences and Philosophy, 16 (2006), pp. 237-86 を遅ればせながら読んでいます。基本的には、イブン=スィーナー『治癒の書al-Shifa' 』「カテゴリー論al-Maqulat 」のうちにある「関係的なもの」(al-mudaf / le relatif)についての記述(第4 巻第3-5 章;カイロ版 pp. 143-64)に対してコメントを付していく、というのが流れ。本当は全部読み上げてから読書メモを書きたかったんですが、余りの難解さに挫折しました。フランス語自体はそれほど難解ではないのですが、けっこう時間をかけてるにも拘らず、まだ5 頁ちょっとしか読めていません(!)。これはファン・エスのDie Erkenntnislehre des 'Adudaddin al-Ici 以上の遅さです。まだ9 割近くも残ってるということになりますね。。

嗚呼…。これにはもちろん、わたし自身に基本的知識が欠けているという問題が大いにあります。しかし彼は彼で颯爽と読者を無視して突っ走っている感があります。Arabic Sciences and Philosophy 誌の編集委員は、これほど説明を削ぎ落とされてもスラッと理解できる人間ばかりなんでしょうか。しかも驚くことに、結構な確率で原文の引用に参照箇所が示されていません。彼らはムスリムがコーランを暗唱できるように、『治癒の書』の引用はいちいち参照箇所など示されなくても容易く同定できてしまうのでしょうか。

とまぁ、ボヤキはこれくらいにして、以下現状で理解できているなけなしの情報をまとめてみます。アリストテレスは『カテゴリー論』において、「関係的なもの」について二カ所で定義を行っています(Categories, VII, 6a35-7; 8a31-2)。まずは定義1 から見てみます(訳は岩波全集から引用し、傍点は下線で代用します):

定義1: 「関係的」と言われるのは、それ自らまさにあるところのものが「他のもの」〔あるいはより〕であると言われたり、あるいはたとい何でもその他の仕方で「他のものとの関係において」あると言われたりするようなもののことである(6a35-7)。

アリストテレスはまず「関係的なもの」をこのように定義し、そこからそれが「換位可能性」(convértibilité)、「同時性」(simultaneité)、「同様性」(?: égalité)といった諸々の特性をもつことを示していきます。ここでこれらの特性についてZghal は具体的な説明を行いませんが、これらは以下のようなアリストテレスの議論を指しているものと考えられます(但しégalité についてはよくわかっておりませんで、再考の必要があります):

換位可能性:「奴隷」は「主人の奴隷」と言われるが、「主人」も「奴隷の主人」と言われる。このようにあらゆる関係的なものは換位的に言われる。しかしここで「翼は鳥の翼と言われるが、鳥は翼の鳥とは言われない」というような指摘があるかもしれない。だがそれは、「鳥の翼」に対する指示の仕方が固有な仕方で為されていないから起こる誤りである。つまり「翼」は鳥である限りにおいて「鳥の」と言われているのではなく、「翼のあるもの」である限りにおいて言われているのである。何故なら鳥以外にも翼をもつものはあるのだから。翼は翼あるものの翼であり、翼あるものは翼によって翼あるものなのである。それ故あらゆる関係的なものは換位的に言われる。

同時性:「二倍のもの」と「半分のもの」は同時にある。前者があるなら後者もあり、後者があるなら前者もある。逆に前者が無いなら後者も無く、後者が無いなら前者も無い。このように大多数の関係的なものは本性上同時にある(しかし例えば「知識されるもの」は、大抵の場合「知識」より先にあるので、全ての関係的なものが同時にあるという訳ではない)。

しかし定義1 に従って「関係的なもの」を理解しようとすると、この「関係的なもの」のカテゴリーは実体のカテゴリーの一部と重なる(具体的には第二実体のうちのほんのいくつかが重なるのみであり、第一実体と大多数の第二実体は重ならない)ことになるようにも思われる(らしいのですが、この辺のアリストテレスの議論は込み入っていてよくわかりません)。しかしそれが本当にそうなのかどうかというのは、解決困難な難問である。そこで定義2 が定義1 の補正案として提出されることになります:

定義2: 関係的なものどもというのはそれの「であること」〔本質〕が「或るものとの関係においてこうこうである」ど同一であるところのものどもである(8a31-2)。

このような再定義によって、彼の言う解決困難な難問に対してどのような回答が与えられるようになるのか、さっぱりわかりませんが、この定義2 に対してはアリストテレス注釈者たち(Zghal が参照しているのはシンプリキウス)が以下の二つの理由から異議を唱えているようです:

1) 定義1 のみで十分「関係的なもの」という概念の規定を行ってくれているので、定義2 は不要である。
2) その定義の中で定義されるべき正にそのものが、定義中で使用されており、循環となっている。

これら二つの異議立てに対して回答を行ったのが、イブン=スィーナーであるようです。彼はまず「関係的なもの」を「他のものとの関係において言われるあらゆるもの」に対して適用されるものとし、これを類概念として把握します。そしてその類概念の下位区分として、(a)「カテゴリーでない関係的なもの」と(b)「カテゴリーである関係的なもの」という二つの種を立てます。そしてここで重要なのが、この分類分けはその「関係を通じて言われるもの」の固有存在(固有のあり方?)が存在であるか非存在であるかに応じて為される、という点です。固有のあり方が存在であるか非存在であるか、という論点はもしかすると、アリストテレスの言う「難問」に出てくる第一実体、第二実体に関係してくるのかもしれません。そしてこのような「関係的なもの」に対する再定式化が、上記の二つの異議立てに対してどう効いてくるのか、またこれらの異議立てに対して回答を行っているということは、イブン=スィーナーは「関係的なもの」をアリストテレスの定義2 に近いかたちで理解しているのか、或いは定義1 に対する補遺として定義2 の必要性を主張するのみであるのか。

…まぁ、よくわかりませんが、現状でまとめられるのはこの程度まででしょう。先のほうを見てみると存在論的な語彙が豊富に出てくるので、さっさと読み上げてしまわなければなりません。今夜はこいつに集中します。そして、やはりギリシア語の文法もさっさと終えなければなりませんね…。

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